category: 家庭
DATE : 2006.10.02 (Mon) 03:39
DATE : 2006.10.02 (Mon) 03:39
生命は尊いものだ。
2月17日の夜、妻が恐る恐る妊娠検査薬を使用すると、「陽性」のところに紫のラインが。
戸惑いつつも、2人で喜びを分かち合ったときのことを思い出す。
翌日の土曜、産科の診察で妊娠が確定。
子宮の超音波写真には、直径僅か5mm程の小球が。
妻と私の遺伝子を持った胚が、今まさに細胞分裂を繰り返しながら成長している。
新しい生命が、確かにそこにある。
何とも不思議な感覚だ。
1~2週間した頃だろうか、妻が少量の出血を訴える。
何度か繰り返したため、不安ですすり泣いたものだ。
私は何度となく「大丈夫だ」と言ってなだめた。
出血は止まったものの、3月に入ると、今度は激しいつわりに見舞われ始める。
食欲がなくなり、嘔吐を繰り返し、
ついには水も受け付けなくなってしまう。
見た目も明らかに痩せ細ってしまい、もともとそれほどない体重が、10kgも落ちてしまった。
これにより、入院を余儀なくされてしまう。
食欲が回復して退院するまでに、3週間を要した。
今でも妻は、「つわりで入院する前の辛さは地獄のようだった」と振り返る。
出だしは困難続きだったが、妻が退院してからは、子供は順調に大きくなっていく。
というよりもむしろ、親の心配を尻目に、子はスクスクと歩むべき成長の道を進んでいたようだ。
4月21日には、それまでかろうじて見ることのできた手や足が、超音波ではっきりと見えるようになる。
妻も子供も、辛い時期をよく乗り越えてくれたものだ。
しばらくすると、超音波検査で子供が女の子らしいことが判明。
その後の定期検査でも、女の子の可能性が次第に濃厚になっていく。
そして1ヶ月、また1ヶ月が過ぎていった。
妻は、「37週を過ぎたから、そろそろ生まれる可能性があるよ」という。
予定日は10月16日で、初産がそれより遅くなりがちなことから、まだもう少し先のことだと思っていた。
「破水したから今から病院に行く」
一昨日9月30日午前5時13分、実家の妻からの突然の電話で私は起こされた。
その日は午前10時からW氏と打ち合わせの約束があった。
しかし1分ほど考えて、私はその予定をキャンセルすることに決めた。
なんといっても一生に1回のことである。
W氏ならば、私の状況を理解してくれるに違いない。
午後5時頃からだったろうか、妻が周期的な陣痛を訴え始めた。
始めは陣痛の合間に食事をぺろっと平らげる余裕があった。
しかし痛みは次第に強まり、深夜0時を過ぎて日付が10月1日に変わった頃には、5~8分毎に強い痛みを訴えるようになる。
眠ることができず、付き添いの私も疲れるが、本人はそれどころではないだろう。
そうこうする内に、外は白み始めた。
相変わらず陣痛の間隔は5~8分毎だが、これが2~3分おきくらいにならないと、出産に入れない。
子宮口が十分に開かないからだ。
既に破水してから24時間近くが経過。
担当医師は、陣痛促進剤の点滴を開始した。
おそらくその効果で、妻の陣痛の苦しみは絶頂に。
妻が痛みで悶えるたび、その母は汗だくでマッサージを繰り返す。
疲労で力が入らなくなると、私がそれに換わった。
妻はかれこれ20時間もの間、数分おきに痛みと戦っている。
なかには「ツルっと」生まれてしまう人もいるらしいが・・・
これではまるで拷問だ。
ようやく子宮口が開くと、妻は分娩室に通された。
数分してセッティングが終わると、「ご主人こちらにどうぞ」といって私も通される。
私には外科のグローブと剪刀が渡された。
臍の緒の切断を希望したからである。
妻は10回ほど気張っただろうか。
小奇麗で設備の整った分娩室に、赤ん坊の泣き声が響いた。
私は涙が溢れそうだった。
助産師に抱きかかえられた赤ん坊は、母親の腹の上にゆっくりと置かれた。
直径1cm程の、ねじれた赤黒い臍帯は、2本の鉗子ではさまれている。
その間を、ゆっくりと座滅するように私は3回鋏を入れて切断した。
子供はとにかくよく泣いた。
自分の生命を主張するように。
それまで苦しんできた母の喜びは、察するに余りある。
2月17日の夜、妻が恐る恐る妊娠検査薬を使用すると、「陽性」のところに紫のラインが。
戸惑いつつも、2人で喜びを分かち合ったときのことを思い出す。
翌日の土曜、産科の診察で妊娠が確定。
子宮の超音波写真には、直径僅か5mm程の小球が。
妻と私の遺伝子を持った胚が、今まさに細胞分裂を繰り返しながら成長している。
新しい生命が、確かにそこにある。
何とも不思議な感覚だ。
1~2週間した頃だろうか、妻が少量の出血を訴える。
何度か繰り返したため、不安ですすり泣いたものだ。
私は何度となく「大丈夫だ」と言ってなだめた。
出血は止まったものの、3月に入ると、今度は激しいつわりに見舞われ始める。
食欲がなくなり、嘔吐を繰り返し、
ついには水も受け付けなくなってしまう。
見た目も明らかに痩せ細ってしまい、もともとそれほどない体重が、10kgも落ちてしまった。
これにより、入院を余儀なくされてしまう。
食欲が回復して退院するまでに、3週間を要した。
今でも妻は、「つわりで入院する前の辛さは地獄のようだった」と振り返る。
出だしは困難続きだったが、妻が退院してからは、子供は順調に大きくなっていく。
というよりもむしろ、親の心配を尻目に、子はスクスクと歩むべき成長の道を進んでいたようだ。
4月21日には、それまでかろうじて見ることのできた手や足が、超音波ではっきりと見えるようになる。
妻も子供も、辛い時期をよく乗り越えてくれたものだ。
しばらくすると、超音波検査で子供が女の子らしいことが判明。
その後の定期検査でも、女の子の可能性が次第に濃厚になっていく。
そして1ヶ月、また1ヶ月が過ぎていった。
妻は、「37週を過ぎたから、そろそろ生まれる可能性があるよ」という。
予定日は10月16日で、初産がそれより遅くなりがちなことから、まだもう少し先のことだと思っていた。
「破水したから今から病院に行く」
一昨日9月30日午前5時13分、実家の妻からの突然の電話で私は起こされた。
その日は午前10時からW氏と打ち合わせの約束があった。
しかし1分ほど考えて、私はその予定をキャンセルすることに決めた。
なんといっても一生に1回のことである。
W氏ならば、私の状況を理解してくれるに違いない。
午後5時頃からだったろうか、妻が周期的な陣痛を訴え始めた。
始めは陣痛の合間に食事をぺろっと平らげる余裕があった。
しかし痛みは次第に強まり、深夜0時を過ぎて日付が10月1日に変わった頃には、5~8分毎に強い痛みを訴えるようになる。
眠ることができず、付き添いの私も疲れるが、本人はそれどころではないだろう。
そうこうする内に、外は白み始めた。
相変わらず陣痛の間隔は5~8分毎だが、これが2~3分おきくらいにならないと、出産に入れない。
子宮口が十分に開かないからだ。
既に破水してから24時間近くが経過。
担当医師は、陣痛促進剤の点滴を開始した。
おそらくその効果で、妻の陣痛の苦しみは絶頂に。
妻が痛みで悶えるたび、その母は汗だくでマッサージを繰り返す。
疲労で力が入らなくなると、私がそれに換わった。
妻はかれこれ20時間もの間、数分おきに痛みと戦っている。
なかには「ツルっと」生まれてしまう人もいるらしいが・・・
これではまるで拷問だ。
ようやく子宮口が開くと、妻は分娩室に通された。
数分してセッティングが終わると、「ご主人こちらにどうぞ」といって私も通される。
私には外科のグローブと剪刀が渡された。
臍の緒の切断を希望したからである。
妻は10回ほど気張っただろうか。
小奇麗で設備の整った分娩室に、赤ん坊の泣き声が響いた。
私は涙が溢れそうだった。
助産師に抱きかかえられた赤ん坊は、母親の腹の上にゆっくりと置かれた。
直径1cm程の、ねじれた赤黒い臍帯は、2本の鉗子ではさまれている。
その間を、ゆっくりと座滅するように私は3回鋏を入れて切断した。
子供はとにかくよく泣いた。
自分の生命を主張するように。
それまで苦しんできた母の喜びは、察するに余りある。
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●この記事にコメントする
★無題
NAME: りえfromI-JIGEN
本当おめでとうございます!
ちゃんと立ち会えてよかったですね!
初産でも最近は結構早く産まれちゃったって聞きますね。
でもこれからが大変ですね。いっぱいママをサポートしてあげて、育児をともに頑張ってくださいね!
ちゃんと立ち会えてよかったですね!
初産でも最近は結構早く産まれちゃったって聞きますね。
でもこれからが大変ですね。いっぱいママをサポートしてあげて、育児をともに頑張ってくださいね!
[Ken Takahashi] Re:無題
ありがとう!
授かったこの子を、大切に育てていきたいと思います。
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