category: 宇宙飛行士試験
DATE : 2011.01.31 (Mon) 01:29
DATE : 2011.01.31 (Mon) 01:29
(第10話より続く)
「馬鹿野郎ッ!!」
酸素分圧モニターから「ピッ、ピッ」という音が鳴り響き、人工呼吸器で全身麻酔されているイヌが横たわる手術室から、聞く者を委縮させる甲高い怒号が飛ぶ。
オペを執刀している副院長が、輸液の三方活栓の操作にモタついている彼を厳しく叱責したのだ。
彼がその輝かしい社会人第一日目に有難く頂戴した言葉は、心の込もった「バカヤロー」であった。
獣医学生時代に基礎系の研究室に所属していた彼には実臨床の経験が全くなかったので、そんなヘマをやらかしたのも無理はない。
同期の新人獣医師は彼の他に2人あったが、その中で彼は一番経験が浅い。
つまり言い換えれば、彼はその動物病院で一番の劣等生ということになる。
学生時代に語学資格をいくつか取得し、獣医師国家試験を問題なくパスしてきた彼には多少のプライドもあったろうが、そんなものは初日にして粉々に砕かれた。
技術に定評があり、数100kmも遠方から患者が訪れてくることも珍しくないその動物病院は、しばしば「戦場」のような状態と化す。
実際、夜間に交通事故などの重篤な救急患者が立て続けに入る場合など、極度の緊張状態が数時間続きっぱなしになることもしばしばである。
また週に一回当直があり、その日は当然家に帰れない。
当直明けの日は日程上では休みなのだが、当直業務中に引き受けた入院患者の処置などで時間がかかり、気が付いたら夕方などということもある。
さらに、副院長(彼を叱責したその人)の当直の日には、レントゲン読影などの勉強会で深夜3時頃までかかることもしばしば。
それでなくても病院一の劣等生の彼は、日中の通常の業務においてもヘマをやらかさないよう常に緊張している必要がある。
出勤日の夜はコンビニで何か買ってワンルームに帰り、食べて風呂に入ったら倒れるように寝る、という有り様。
ある当直明けの日など、彼は疲労し切った体を公園のベンチの上に仰向けに乗せて空を見上げ、己の境遇を嘆かずにはいられなかった。
こんな状況では、呑気に英語の勉強をするなどという余裕は生まれまい。
それにもかかわらず、彼が初出勤から3週間後には『松本亨英作全集』の英作文問題をB5のルーズリーフ3枚に書きつけていることに、私は驚きを禁じ得ない。
もしかしたら、苛烈な仕事に追われる毎日にあって、「宇宙を目指して英語の勉強をする」ということが、彼にとって自分自身を取り戻す安らぎの行為ですらあったのかもしれない。
取れる保証のないたまの休日に英作文をするという1年は、あっという間に過ぎた。
大学時代に始めた『松本亨英作全集』全10巻の第7巻が終了し、それを記したB5のルーズリーフは431ページを数えた。
そうして彼は獣医師2年目の春を迎える。
(第12話に続く)
「馬鹿野郎ッ!!」
酸素分圧モニターから「ピッ、ピッ」という音が鳴り響き、人工呼吸器で全身麻酔されているイヌが横たわる手術室から、聞く者を委縮させる甲高い怒号が飛ぶ。
オペを執刀している副院長が、輸液の三方活栓の操作にモタついている彼を厳しく叱責したのだ。
彼がその輝かしい社会人第一日目に有難く頂戴した言葉は、心の込もった「バカヤロー」であった。
獣医学生時代に基礎系の研究室に所属していた彼には実臨床の経験が全くなかったので、そんなヘマをやらかしたのも無理はない。
同期の新人獣医師は彼の他に2人あったが、その中で彼は一番経験が浅い。
つまり言い換えれば、彼はその動物病院で一番の劣等生ということになる。
学生時代に語学資格をいくつか取得し、獣医師国家試験を問題なくパスしてきた彼には多少のプライドもあったろうが、そんなものは初日にして粉々に砕かれた。
技術に定評があり、数100kmも遠方から患者が訪れてくることも珍しくないその動物病院は、しばしば「戦場」のような状態と化す。
実際、夜間に交通事故などの重篤な救急患者が立て続けに入る場合など、極度の緊張状態が数時間続きっぱなしになることもしばしばである。
また週に一回当直があり、その日は当然家に帰れない。
当直明けの日は日程上では休みなのだが、当直業務中に引き受けた入院患者の処置などで時間がかかり、気が付いたら夕方などということもある。
さらに、副院長(彼を叱責したその人)の当直の日には、レントゲン読影などの勉強会で深夜3時頃までかかることもしばしば。
それでなくても病院一の劣等生の彼は、日中の通常の業務においてもヘマをやらかさないよう常に緊張している必要がある。
出勤日の夜はコンビニで何か買ってワンルームに帰り、食べて風呂に入ったら倒れるように寝る、という有り様。
ある当直明けの日など、彼は疲労し切った体を公園のベンチの上に仰向けに乗せて空を見上げ、己の境遇を嘆かずにはいられなかった。
こんな状況では、呑気に英語の勉強をするなどという余裕は生まれまい。
それにもかかわらず、彼が初出勤から3週間後には『松本亨英作全集』の英作文問題をB5のルーズリーフ3枚に書きつけていることに、私は驚きを禁じ得ない。
もしかしたら、苛烈な仕事に追われる毎日にあって、「宇宙を目指して英語の勉強をする」ということが、彼にとって自分自身を取り戻す安らぎの行為ですらあったのかもしれない。
取れる保証のないたまの休日に英作文をするという1年は、あっという間に過ぎた。
大学時代に始めた『松本亨英作全集』全10巻の第7巻が終了し、それを記したB5のルーズリーフは431ページを数えた。
そうして彼は獣医師2年目の春を迎える。
(第12話に続く)
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