category: 宇宙飛行士試験
DATE : 2011.01.25 (Tue) 04:10
DATE : 2011.01.25 (Tue) 04:10
(第6話より続く)
獣医学科は6年制である。
その頃教育学部の学生に混じって毎晩音楽棟に「不法侵入」していた彼は、その5年生である。
彼の学科では4年生の前期までに講義・実習は一通り終わっていて、学生は後期から研究室に配属されて卒業研究を行う。
各々の研究室の教官は学生実習を行うが、教官だけでは人手不足なので研究室に所属している学生をアシスタントとして動員することが普通だった。
彼もご多分に漏れず、下の学年の実習の補助員として刈り出された。
しかし、彼自身はむしろそれを楽しんでいた。
血液を採取して血球数を数えたり、心電図を記録して解析したりする実習を毎週行う。
当初は教える方・教えられる方の双方に初対面の緊張があるのだが、週を追うごとにそれも和んでくる。
そうなると、実習後に私的な会話を交わす場面も出てくる。
あるとき彼は、毎週実習が終わった後に残って他愛のない会話を交わす学生(つまりは彼の後輩)の中に、注意を引く者があることに気づく。
人と人とは不思議なもので、どれだけ近くに長くいても全く視線が合わないこともあれば、遠く離れていてもたった一瞬のうちに磁石のように互いの双眸が引きつけ合うこともある。
彼の眼は、一人の女子学生のそれと合った。麗らかな人の。
人と人との不思議といえば、会話もまさにそうである。
合わない相手とは一文一文が噛み合わないのだが、波長が合う相手とは一言一言が共鳴し、このままいつまでも話していたいという熱気すら醸し出す。
彼と彼女とに共鳴をもたらしたのは、英語に加えて最近彼が打ち込んでいるものであった。
音楽である。
最近彼が音楽棟に行っている話をすると、ピアノの心得のある彼女は私もぜひ行ってみたいと言った。
その実習トークのすぐ後に音楽棟に行かなかったのは、彼があえてそれを後に延ばし、必死にピアノの練習をしてから彼女に好印象を与えようとしたためか――それは定かではない。
いずれにせよ二人は後日会うことにしたので、彼はその日を待つことになった。
来るか、否か――。
約束のその日、自分の心拍と手掌の発汗を感じながら、彼は待つ。
果たして、赤いコートに身を纏ったその人は、彼の前に現れた。
1995年も年末の日の沈む頃、ふたりは歩いて音楽棟に向かう。
そこに着くと、あちこちの部屋でピアノが鳴る中、彼らは一つの空き部屋を見付けた。
椅子は一つしかなかったが、それは長椅子だったので、ふたりはその上に並んで座ることにした。
まずは、彼がこの日のために猛烈に練習したラヴェルの「パヴァーヌ」を弾く。
しかし、所詮は素人の付け焼刃である。彼女は社交辞令的な拍手を送ったが、「もっと簡単なやつをやりましょう」と言ってひとつの素晴らしい提案をした。
連弾である。
簡単でとりわけおもしろそうでもない曲をやることを、彼ははじめ怪訝に思った。
これまでアンサンブルの類をやったことのない彼には無理もない。
ところが、実際にやってみると言葉では表し難い楽しさがある。
ふたりは、ひとつのピアノで音楽を奏でる。
仮にピアノとフルートのアンサンブルをしても面白いには違いないが、同じ楽器を二人で弾く連弾には、それを超える一体感がある。
低音を弾く彼の手と、高音を弾く彼女の手とが、時々軽く触れる。
外は夜のとばり。
ピアノ一台を入れるだけの小さな部屋で、明かりはただ彼と彼女だけを照らす。
身も溶けるような甘美な空気が充満する中、彼はピアノを弾く彼女の愛おしい後ろ姿をただ眺める。
これが、彼の記憶という記憶のうちで、おそらく最も美しいものである。
音楽棟での密会が3回を数えた頃、彼は彼女を夕食に誘った。
彼はその日のために、ありとあらゆるところを車で走りまわって店を探す。
そして、その時はやって来る。
(第8話に続く)
獣医学科は6年制である。
その頃教育学部の学生に混じって毎晩音楽棟に「不法侵入」していた彼は、その5年生である。
彼の学科では4年生の前期までに講義・実習は一通り終わっていて、学生は後期から研究室に配属されて卒業研究を行う。
各々の研究室の教官は学生実習を行うが、教官だけでは人手不足なので研究室に所属している学生をアシスタントとして動員することが普通だった。
彼もご多分に漏れず、下の学年の実習の補助員として刈り出された。
しかし、彼自身はむしろそれを楽しんでいた。
血液を採取して血球数を数えたり、心電図を記録して解析したりする実習を毎週行う。
当初は教える方・教えられる方の双方に初対面の緊張があるのだが、週を追うごとにそれも和んでくる。
そうなると、実習後に私的な会話を交わす場面も出てくる。
あるとき彼は、毎週実習が終わった後に残って他愛のない会話を交わす学生(つまりは彼の後輩)の中に、注意を引く者があることに気づく。
人と人とは不思議なもので、どれだけ近くに長くいても全く視線が合わないこともあれば、遠く離れていてもたった一瞬のうちに磁石のように互いの双眸が引きつけ合うこともある。
彼の眼は、一人の女子学生のそれと合った。麗らかな人の。
人と人との不思議といえば、会話もまさにそうである。
合わない相手とは一文一文が噛み合わないのだが、波長が合う相手とは一言一言が共鳴し、このままいつまでも話していたいという熱気すら醸し出す。
彼と彼女とに共鳴をもたらしたのは、英語に加えて最近彼が打ち込んでいるものであった。
音楽である。
最近彼が音楽棟に行っている話をすると、ピアノの心得のある彼女は私もぜひ行ってみたいと言った。
その実習トークのすぐ後に音楽棟に行かなかったのは、彼があえてそれを後に延ばし、必死にピアノの練習をしてから彼女に好印象を与えようとしたためか――それは定かではない。
いずれにせよ二人は後日会うことにしたので、彼はその日を待つことになった。
来るか、否か――。
約束のその日、自分の心拍と手掌の発汗を感じながら、彼は待つ。
果たして、赤いコートに身を纏ったその人は、彼の前に現れた。
1995年も年末の日の沈む頃、ふたりは歩いて音楽棟に向かう。
そこに着くと、あちこちの部屋でピアノが鳴る中、彼らは一つの空き部屋を見付けた。
椅子は一つしかなかったが、それは長椅子だったので、ふたりはその上に並んで座ることにした。
まずは、彼がこの日のために猛烈に練習したラヴェルの「パヴァーヌ」を弾く。
しかし、所詮は素人の付け焼刃である。彼女は社交辞令的な拍手を送ったが、「もっと簡単なやつをやりましょう」と言ってひとつの素晴らしい提案をした。
連弾である。
簡単でとりわけおもしろそうでもない曲をやることを、彼ははじめ怪訝に思った。
これまでアンサンブルの類をやったことのない彼には無理もない。
ところが、実際にやってみると言葉では表し難い楽しさがある。
ふたりは、ひとつのピアノで音楽を奏でる。
仮にピアノとフルートのアンサンブルをしても面白いには違いないが、同じ楽器を二人で弾く連弾には、それを超える一体感がある。
低音を弾く彼の手と、高音を弾く彼女の手とが、時々軽く触れる。
外は夜のとばり。
ピアノ一台を入れるだけの小さな部屋で、明かりはただ彼と彼女だけを照らす。
身も溶けるような甘美な空気が充満する中、彼はピアノを弾く彼女の愛おしい後ろ姿をただ眺める。
これが、彼の記憶という記憶のうちで、おそらく最も美しいものである。
音楽棟での密会が3回を数えた頃、彼は彼女を夕食に誘った。
彼はその日のために、ありとあらゆるところを車で走りまわって店を探す。
そして、その時はやって来る。
(第8話に続く)
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