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DATE : 2011.02.08 (Tue) 02:57
第16話より続く)

1998年といえば、古川さん、星出さん、角野さん(後の山崎さん)の3人のISS宇宙飛行士候補者を生む選抜が行われた年である。
しかし、「自然科学系の研究、設計、開発等に3年以上の実務経験を有すること」という条件を満たさない彼には、まだその応募資格はない。
もしかしたらもう次の募集は二度とないかもしれないという状況で、その不確かな望みに「人生」をベットするという大博打は、ただ狂気のみが為せる業であろうか。

そのとき獣医2年目の彼がしていることは、3つある。
今まさに宇宙飛行士候補者選抜が行われているその時に彼がしているのは、そのいずれもが、すぐには目立った成果を生まない地味なものだ。
一つ目は、学生時代から引き続き行っている英語である。

実は、彼は英検準1級を取ったあと、大学時代に1級の試験を3回受けていた。
卒業して就職すると勉強時間がなくなるだろうから、学生のうちに短期決戦でケリを着けようとしたのだ。
彼が90日間休まず『松本亨英作全集』を続けて5巻までを終えるなどしたのは、まさにそのためであった。

もしそこで1級を取ることができれば、彼の人生はもっと鮮やかで華麗であったろうが、残念ながら結果は3回とも合格に程遠い「不合格B」であった。
彼は、英検1級と準1級との間の壁は、準1級と2級との間とは比べ物にならないほど厚いということを、その身に思い知らされた。
しかし彼はそれに懲りるでもなく、むしろいっそう闘志を燃やして、必ずやその頂を極めることを心に刻んだのだった。

彼が獣医時代に英語の勉強で具体的にしていたことは、学生時代から続く『松本亨英作全集』と、「Weekly MAINICHI」という英字新聞の購読である。
彼が英会話のレッスンを受けなかったのには、時間の調整が難しいという他にも理由があった。
それは、言葉を話すということが、究極的には作文に行きつくと彼が考えていたことによる。

彼は、英検準1級の2次試験対策で英会話学校に通ったことで、週に1、2回ただ漫然とレッスンを受けるだけでは会話力の伸びが頭打ちになることを、肌身にしみて感じていた。
英語で話そうとするとき――母国語もそうであろうが――には、頭の中で文を組み立てて、それを音として発音する。
流暢に話すことは、その過程を高速で行うことであり、おそらくネイティブはそれを無意識で行うレベルに達しているのだろう。

実用的な電子辞書も既に存在する時代ではあったが、彼は英字新聞などを読むとき、分からない単語はケンタッキーで自分の土産に買ってきた分厚い『ウェブスター英英辞典』で調べた。
しかし、アメリカの大学生が使うというその辞書は、日本人の英語学習者にはちと難解である。
初めの頃は、英英辞典で調べた項目の中にまた分からない単語があって、またその単語を調べて、というようなことを延々とやっていると、元の単語の意味がわかるまで10分以上かかることもあった。

ところで、彼には相変わらず自分がしたことの成果を確認したがる傾向があった。
例えば、本を読むときは巻頭に読み始めた日付を書き、巻末には読み終えた日付を書いた。
また、ピアノや語学で繰り返して練習をするときには、日付とともに何回行ったかを示す「正」の字を書いていった。

さらに偏執的なのは、彼が辞書で意味を調べるとき、調べた単語の左に赤色のペンでいちいち小さく丸印をつけていったことである。
女人に見られたら、まず嫌われそうな行動ではある。。
また、成果を確認したがる傾向の最たるものといえば、そもそも語学の習得度を測るのに検定制度を利用したことだろう。


彼が獣医時代にしていたことの二つ目は、数学や漢字や歴史などの、教養の勉強である。
そのいずれもが、習得度を測る検定制度があるものである。
そして彼がしたことの三つ目は、大学院進学の準備である。

宇宙医学実験センターが大学院生の募集をしていないことを知った彼は、他の研究室を探し始めた。
宇宙医学実験センターは環境医学研究所という施設の一部門なのだが、その研究所の他の部門も宇宙関連の研究をしているらしいという情報を、彼は「聖地巡礼」の際に得ていた。
自宅にネット環境がない彼は、またしてもネットカフェで環境医学研究所について調べ、その中のひとつの研究室が大学院生を募集していることを発見する。

また彼は、「聖地巡礼」の頃には小額ながら貯金を始めている。
まだ具体的にどこの大学院を目指すかは決まっていない段階ではあるが、大学院に行くことは心に決めていたのか、そのための学費を準備していたようだ。
そして、彼が休日のある日に書店で一冊の本に出会うのは、この頃である。

第18話に続く)

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