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DATE : 2011.02.18 (Fri) 01:11
第23話より続く)

1999年の4月1日を迎えると、彼は獣医師3年目である。
彼の勤める動物病院では、勤務医は通例3年契約で卒業することになっているので、院長を除けば3年目の獣医師がトップになる。
まだまだ一人前の獣医師とは言い難い彼だが、それでも2年前のその日に「馬鹿野郎ッ!」と怒鳴られ、病院一の劣等生だったことを思えば、その成長ぶりには見紛う程のものがある。

ある日、腹水の貯留で腹がパンパンに膨れ上がった犬が来診した。
彼がその犬を処置台の上に乗せて看護師に保定してもらい、犬の腹部におもむろに手を当てて狙いを定め、直径5mm程の套管針(とうかんしん)を素早く一気に「ズシャッッ!!」と突き刺して内刀を引き抜くと、薄黄色い液体が管から流れ出て見事に抜けていく。
それを見て「お前、腹水抜くの上手くなったな!」と微笑みかけたのは、2年前に彼の三方活栓の操作の不手際を叱責した、元副院長その人であった。

またある日、骨折の犬が来院して、どうしてもその日のうちに処置が必要な局面に彼は遭遇する。
たまたまその日は院長が不在で、さらに彼の同期の獣医師は休暇中であったので、まだ半人前とはいえ彼は院長代理ということになる。
言うならば、動物病院という船の全指揮を執り、その全責任を負う艦長代理である。

犬猫の場合、骨折の手術は即ち全身麻酔を意味するので、それは最悪の場合死亡もあり得る、極めて慎重を要する処置である。
しかし、整形外科は彼の動物病院の看板科目なので、「骨折のオペはできません」などとは決して言えない。
しかも、絶対に失敗は許されない。

「フォロワーシップばかり実践していては駄目だ。リーダーシップを発揮せねば――。」
その時、彼の脳裏に宇宙があったか否か。
部下の獣医師や看護師が判断を仰ぐ目で彼を見つめる中、しばらく考えた挙げ句、一人の獣医師を助手に指名すると、彼は毅然としてそのオペの執刀を決断する。

青い術衣とマスクを着用し、神妙な面持ちで白いグローブを手にはめると、彼は周到に用意した器具を台に並べる。
オペ室のシャーカッセンに貼られたレントゲン写真で骨折部を確認し、助手が無影灯で術野を照らすと、彼はメスを取って皮膚に切開を入れ始める。
もう後戻りできないその戦いに、彼は全力を尽くして挑む。

もし院長が見ていたら、あまりの危なっかしさに激怒したかもしれないが、彼は曲りなりにもそれをやってのけた。
どんなに優秀な艦長も院長も、初めからエキスパートだったわけではない。
人が位に就くのではなく、位が人をつくるのだ。


ところで、彼の動物病院もいつも急患や重症患者ばかりが来院するわけではない。
狂犬病などの予防接種や、フィラリア症(蚊が媒介する寄生虫感染症)の血液検査など、いわゆるルーチンワークも少なくない。
腎臓病の犬や猫への皮下点滴もまた、その一例である。

特に猫は、10歳を過ぎると慢性の腎不全が多く見られる。
人間の場合、慢性腎不全の処置は定期的な透析療法になるが、犬猫の場合は皮下に点滴を打つことである程度同様の効果が期待できる。
獣医師の仕事の何パーセントかは、慢性腎不全の犬猫――それはたいてい昼間に中年の主婦が連れてくる――に皮下点滴をすることだと言っても間違いではあるまい。

腎不全に限らず、病気の動物を連れてくるのは一般に「おばちゃん」が多いが、時々若い女性が現れることがある。

ところで、彼の勤める病院では、診察する獣医師を決めるのにある特有のシステムがある。
まず受付嬢が受付をした順にカルテを出してきて、机の上に重ねて並べる。
次に手の空いている獣医師がその一番上のカルテを持って診察室に行き、「○○さ~ん」といって部屋に呼び入れるのだ。

そうすると、奇妙なことに特定の獣医師が高確率で若い女性の飼い主に「当たる」ことがある。
それはやろうと思えば実際簡単なことで、一番上のカルテに書いてある飼い主の名前・動物種を見た後、待合室を見てそれに照合する人物を特定し、その人物が「圏内」であればカルテを取り、そうでなければそそくさと入院患者の処置などに行けばよい。
あくどい業ではあるが、そうとしか思えない事例を彼は半ば呆れつつ、半ば嫉妬しつつも何回か目撃している。

ある日、珍しく若い女性がケージの中に猫を入れて来院した。
彼は偶然そのカルテを「引いた」ので、その患者を診ることになった。
12歳の猫で、最近食欲がなく吐き気があるとのことだが、「これは」と思いつつ彼が血液検査をすると、予想通りそれは腎不全である。

第25話に続く)

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