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DATE : 2011.04.01 (Fri) 02:26
第48話より続く)

Gulfstream-IIはアメリカのガルフストリーム・エアロスペース社が開発したジェット機で、ビジネス用のプライベートジェットなどに用いられる。
ちなみにホリエモンが所有していたのはGulfstream 400型機で、お値段は30億円だったとか。
プライベートジェットの場合は内部に備え付けられているのは豪華なソファやシャワールームだが、パラボリックフライトの場合、載っているのはそれと比べればずいぶん殺風景な実験用の機材である。



自律神経活動を記録する実験の被験者である彼は、呼吸計や心電図などのモニターを首から脚までびっしりと取り付けられ、被験者用のベッドに体が動かないようにガッチリと固定されている。
まっすぐ向くと見えるのは天井だけで、窓は少しだけ見えるのだが、どのみち高度を上げると見えるものといっても青い空だけだ。
天井からひもでぶら下がっているものは、一見何のためか不思議なのだが、オレンジ色のピンポン球である。

研究者が被験者と実験装置のチェックを終えてパイロットに合図すると、Gulfstream-IIは滑走路を離陸し、数十分ほど飛行するとパラボリックフライトを行う予定空域に入る。
いよいよG-IIが機体を持ち上げて急上昇を始めると、機内のあらゆるものには2Gの加速度がかかる。
戦闘機で9Gまでかかるのに比べればまだまだ軽い方だが、それでも体重が2倍になったような、押し付けられるような圧迫感が感じられる。

しばらくすると、2Gの加速度でベッドに押さえ付けられていた彼の身体が、不意にふっと軽くなる。
十分に上昇したG-IIが、エンジン出力をカットして放物線軌道を描く自由落下を始めたのだ。
この約20秒の間機内は0G状態となり、さっきまで重かった身体が嘘のように軽くなる。

天井からつるされているピンポン球が、微小重力でふわっと宙に浮いている。
なるほど、ピンポン球は無重力になったことが分かるように付けてあったのか!
おもしろいことに、窓のさんにたまっていた埃までもがフワフワと浮いている。

一方彼と同乗している他の研究チームの研究者は、ベッドにくくりつけられて身動きできない彼を尻目に、何の実験をしているのか楽しそうに浮遊しているではないか。
「あぁ、俺も空中遊泳がしたい」と内心彼は思うのだが、それを言っても始まらないので、できるだけ有効なデータを取ってもらうために精一杯じっとして、よい被験者であることに努める。
微小重力の20秒間はあっという間に過ぎ、浮いていたピンポン球も埃も一瞬にして元の場所に落ちると、G-IIは次の放物線飛行に備えて姿勢を立て直す。

あとはこの繰り返しである。
このように何回もGの変化を受けるというのは日常体験しないことなので、人によっては悪心を起こしてしまうのだが、彼はベッドにくくりつけられて身動きできないせいか、嘔吐を催すまでには至らない。
あるいは、前日に十分睡眠を取り、食事にも気をつけたことが多少の効果を上げたのかもしれない。

17回の無重力飛行が終わり、至るところに取り付けられていたモニターとベッドの固定が外されると、彼が真っ先に向かったのは機内のトイレである。
脚に電極を取り付ける必要があったので彼は短パン姿なのだが、3時間近く寒い上空で脚を露出していたためか、膀胱にかなりの量の液体が貯留していたのである。
他大学の研究者も感心するほど長い間彼は「出し」続けたのだが、そんな経験は彼の人生で前にも後にもないかもしれない。

9-11テロの後のことではあるが、パラボリックフライト実験の参加者は流石に大丈夫だと思われているのか、操縦席と客席とを仕切る壁は取り払われたままである。
小型機とはいえ――いやむしろ小型機こそと言うべきか――、操縦席の計器とパイロットを間近に見ながら飛行するのはおもしろい。
研究者一行は、操縦席のフロントガラス越しに青い大空と名古屋の街を眺めつつ、飛行機の飛ばし方などについてパイロットと会話を交わしながら、小牧空港に帰還した。

第50話に続く)

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DATE : 2011.03.31 (Thu) 02:15
第47話より続く)

彼がIACの派遣プログラムでフランスに行く数週間ほど前、願ってもない話が持ち上がっていた。
彼が所属する環境医学研究所の某研究室の助教授が、宇宙医学の実験の被験者をやらないか、というのである。
その話に対し、彼がこう答えることは容易に想像できる――「ぜひやらせてください!!」

その研究室の宇宙医学実験とは、パラボリックフライトを用いて無重力状態における自律神経活動の記録を行うことである。
パラボリックフライトとは、放物線(parabola)軌道を描くように飛行機を飛ばすことにより、人工的に数十秒間の無重力状態――正確には微小重力状態――を作り出すことをいう。
宇宙飛行士の訓練の一環として行われるこのフライトは、少なからぬ人が嘔吐を催すので、NASAでは”vomit comet”(嘔吐彗星)とあだ名される。

環研に大学院生として入ってからそう経たないうちにパラボリックフライトの存在を知った彼は、是非ともそれを体験してみたいものだと常々思っていた。
実は1年近く前にMGLABの「無重量セミナー」――それは、彼にIACの存在を知らしめた運命のイベントである――に参加したときも、彼は宇宙医学の研究をしている教授に「パラボリックフライトの被験者を募集していたらぜひさせて下さい」と申し出ていたのだが、目下のところその予定はないと聞いて残念に思っていたのだ。
宇宙医学の被験者としてパラボリックフライトを経験したという経歴は、将来受験するであろう宇宙飛行士候補者選抜で多少は有利に働くかもしれない。

2001年10月11日、運良く好天に恵まれた彼は、小牧空港で当日の実験についての詳細なブリーフィングを受けると、パラボリックフライトを行うGulfstream IIに乗り込んだ。
放物線飛行というのは、2Gの加速度で急上昇した後にエンジンの出力を切って0G状態を作り出すというややアクロバティックな飛び方だから、普通の飛び方よりはリスクが高い。
実際にフライトに入る前に、彼は危険を承知している旨の同意書を書くことを促されたが、仮に事故に遭ったとしても、宇宙医学の実験でならば彼の本望だろう。

このフライトで無重量実験を行う研究グループは、環研の他にもう一つある。
2Gと0Gを交互に十数回繰り返すパラボリックフライトでは、被験者が重度の吐き気を催して実験の継続が困難となった場合、飛行を中止して空港に戻ることがあるという。
このフライトはたった1回でも多大な準備と費用を必要とするから、もし彼がひどい吐き気などを起こそうものなら、環研だけではなくよそのグループにも大変な迷惑がかかってしまう。

吐き気を起こさないよう十分に睡眠をとり、食事は軽めに取ってきた彼だが、果たしてその結果や如何に?

第49話に続く)

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DATE : 2011.03.30 (Wed) 07:50
第46話より続く)

国際宇宙連盟会議はつまるところ学会の一種であるから、発表者でない一般の参加者がとる行動は、基本的には、1題20分程度の発表者の話や議論を聞きに行ったり、展示ブースを見に行ったり、あるいはパーティーなどに参加する、のいずれかということになる。
発表や展示は合計すると100以上にも上り、全部聞いたり見たりすることはそもそも時間的に不可能だから、各人は分厚いプログラムとにらめっこしながら自分の関心のあるものを探し出して見に行くことになる。
彼は膨大な発表演題の中から宇宙医学関連のセッションをピックアップすると、その発表を聞くべく会場から会場へと転々とする。

逆に、自分から積極的に動かなければ何も得ることはできず、お国の税金を無駄にしてただフランス旅行に行ってきただけということになりかねない。
社交的なスキルがある者は、各国の宇宙機関の重要人物やおもしろい人物と、次々と人脈を築いていく。
その手のことに不器用な彼ではあるが、いくつかの成果はあった。

数百人を収容するメインホールで行われた有人宇宙活動関連のセッションが終わったときのこと、あぁ興味深い話だったと思いつつ彼が席を立とうとすると、隣に座っていた老年の紳士が彼に声を掛けた。
いったい誰かと彼は思ったが、聞いてみるとその人は、何と1970年のアポロ13号の奇跡の生還(トム・ハンクス主演で映画化もされている)の際、地上のミッションコントロールセンターからアポロの宇宙飛行士たちに指示を送っていた、ロッキード社の人物その人だという。
また彼は、別の展示会場で日本人宇宙飛行士の向井千秋さんに会い、直に会話を交わしたりもした。

彼以外の日本からの学生参加者もまた、宇宙工学や人工衛星など、自分の専門と関連する思い思いのセッションに参加した。
日中は別行動の彼らも、ディナーの時間には全員集合してその日の成果を話し合うのだが、最年少は19歳という若者達のこと、夜は毎晩のようにホテルの一室に集まって、男も女も、宇宙のことからプライベートまで気の向くまま、ほとんど朝まで熱っぽく語り合うのだ。
ロッキード社の元社員や宇宙飛行士とお近付きになるのはもちろん一つの成果だが、これからの社会を導いていく日本の若い学生達と親交を深めることの中に、彼の運命を導く種子が潜んでいることを、彼はまだ知るまい。


NASDAが学生達をIACに派遣するのは、将来社会を担う若者達に「井戸の外」の世界を見せることで、社会を豊かにするのが狙いだろう。
それはアメリカ同時多発テロという歴史に残る危機的状況の中、多少のリスクを冒しつつ行われたのである。
このIACに関る顛末もまた、彼の人生における一つの泡沫なのだが、この大きな泡沫は、消えてなおそこからいくつかの新たな泡沫を派生させることになる。

此くしてIAC派遣を終えて帰国した彼には、宇宙に関わるもうひとつの興味深いイベントが待っている。

第48話に続く)

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DATE : 2011.03.29 (Tue) 01:17
第45話より続く)

「果たして、何人現れるか?」

アメリカ同時多発テロが引き起こした世界的緊張の真っ只中、飛行機をキャンセルする人が後を絶たないというこの情勢では、IACへの派遣が決定した16人の学生のうち、何人かがフランス行きを辞退するのは十分にあり得る話だ。
仮に本人は行く気満々でも、家族が止めるかもしれない。
しかし蓋を開けてみると、引き下がった者は一人もいなかったから、奴さんたちも肝が据わっていると見える。

姿を現した学生達の何人かは初対面だ。
「あの英文エッセイと電話インタビューの選抜をクリアして来た、ただならぬ者達とは一体どんな連中だ?」と彼は興味津々だが、それは相手とて同じらしく、彼らは互いに自己紹介をすると、それぞれが相手に敬意を表した。
彼らが例外なく社交的なのは、事務局による選抜も効いているのだろう。

成田空港の国際線ターミナルの一画に、IAC派遣プログラムの引率者4名と派遣学生16名とが集結すると、NASDAの代表が話を始めた。
「この物騒な社会情勢の中で派遣プログラムを決行するか否かがNASDA内で毎日議論されました。慎重な意見もある中、私はGoと言い続けて今日ここに来ました。皆さん、必ずやこのIACを有意義なものにしましょう!」
彼らはその代表者の尽力に感謝して、心からの拍手を送った。

2001年9月30日、IACへの「使節団」を乗せたエールフランス275便は、成田空港の滑走路を離陸すると、国際宇宙連盟会議の開催地であるフランスへ向けて悠然と飛び立った。


IACの会場となっているトゥールーズは、フランスの南部に位置する都市である。
パリではなく、フランスで5番目の大きさのこの街が開催地として選ばれたのは、ここがエアバス社などを含む航空宇宙産業の拠点だからだろう。
「バラ色の都市」の異名を持つこの街は、街中がピンク色の美しいレンガの建物であふれていて、今にもアコーディオンのシャンソンが聞こえてきそうな、えも言われぬ趣がある。

その一画に堂々と構えている“Centre de Congrès Pierre Baudis”という現代建築の国際会議場が、52年の歴史を持つIAC――国際宇宙連盟会議の今年の会場だ。
NASA、ESA(欧州宇宙機関)やRKA(ロシア宇宙庁)など、世界各国の宇宙機関や関連団体などからこの会議に参加する人は2000人に上り、スーツを身にまとった人々が会場のあちこちで颯爽と闊歩している。
大学院生の彼はこれまでに何度か他の学会に参加したことがあったが、これほど巨大で活気に満ちた会議はこれが初めてだ。

一口に宇宙業界といっても、惑星探査、ロケット、スペースプレーン、宇宙ステーション、人工衛星、宇宙医学、宇宙生物学、宇宙法など様々な分野がある。
各々の分野の発表・議論は数か所に分かれた会場で同時進行で行われ、言語は共通語である英語が用いられる。
会期は5日間だが、その間にはウェルカムパーティーや、Cité de l'espace(宇宙の街)というテーマパークや古代ローマ時代の城塞都市カルカッソンヌへのエクスカーションがあるほか、日本ではあり得ないことに、クラブ風のダンスパーティーまでもがスケジュールされている。

9-11の後、アメリカの友好国では一ヵ所にに大人数が集まるイベントはテロの標的になる可能性があり、中止されてもおかしくないのだが、それにもかかわらずこのIACが手荷物検査などの警備を強化して予定通り盛大に開催されることには、「テロには屈しない」という強いメッセージが込められているのかもしれない。

第47話に続く)

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DATE : 2011.03.27 (Sun) 02:23
第44話より続く)

医学博士号を取得すべく大学院で研究を進める彼は、フランスのトゥールーズで開催される国際宇宙連盟会議(IAC)を3週間後に控え、このところ順風満帆の実験にさらに追い風を送るべく、その日も夜通しとなる実験を始めていた。
時は2001年9月11日、日本時間22時頃、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が激突したという報せは、研究室で実験中の彼をよそに日本のニュースでも直ちに速報された。
アメリカ東部時間の午前9時、こんなによく晴れた日に飛行機が誤って事故を起こすものかと人がいぶかる中、煙の立ち上る摩天楼を見上げて騒然となっている数多の群集のまさに目の前で、――



“Oh, my god!!”

ついさっき飛行機が突っ込んで煙を上げているツインタワーのもう一棟が爆発炎上すると、その場に居合わせた人はおろか、ライブ映像を見ている全世界までもが、一瞬にして戦慄と驚愕のどん底に叩きつけられた!
堂々と聳え立つ「アメリカの富の象徴」にジャンボジェットが突っ込むなどというありえない光景に人々は呆然としたが、まさかそのわずか20分後に、空からもう一機の旅客機が現れて残りのもう一棟に真正面からとどめの激突玉砕をしようなど、この世のいったい誰が――首謀者オサマ・ビンラディン一味を除いて――想像しただろう?!
さらに30分後にペンタゴンがボーイング757の突入を受けると、これはテロリストが引き起こしたアメリカに対する戦争であるということが、全世界の人々に知れ渡ることになった。

後にアメリカ同時多発テロと呼ばれるこの世紀の大事件は、世界の歴史という大河の流れさえ変えずにはおかないのだが、彼の運命という小さな支流にもまた不吉なうねりを送った。
「IACは大丈夫か?!」
企業は外国出張を禁止し、個人は海外旅行を自粛するなど、地球には不安と混乱の空気が充満しているのだが、彼にとって最大の関心事は、IACが予定通りに行われるかどうかなのだ。

テロが勃発する1週間前、IAC派遣プログラムに関する説明会が9月20日に浜松町で行われる旨の連絡が事務局からあった。
裕福でない彼にとって遠方から東京に出向くのは気軽ではないが、説明会にはNASDAの担当者も参加するとのことなので、出席する方が人脈を築く上で有利だと考えた彼は、ためらわずにそれに参加した。
会場では「使節団」の学生達が初めて顔を合わせ、IACへの期待を互いに語り合ったが、NASDAの担当者からはテロの影響で派遣プログラムが中止となる可能性に加え、最悪の場合そもそもIACの開催自体がキャンセルされる可能性があることを伝えられた。

IAC開催が近づくと、Join us at IAF2001事務局からは様々な連絡のメールが送られてくるが、その末尾には毎回「事前に中止となった場合はすみやかにご連絡します(注:日本時間9月○日○時現在では、そのような判断にはなっておりません)」と書かれている。
彼はそれを見てホッと安心する反面、中止という最悪の結果を恐れ続けなければならないことも再確認させられるのだった。
さらに事務局は学生達に、この非常事態の真っ最中に飛行機に乗ってIACの開催地であるフランスに行く覚悟があるかどうかを、両親の賛同をも含めて確認してきた。

彼は、自分の意志に如何なる変化もないことを即答した。
彼が恐れるのは、テロに巻き込まれて生命の危険に晒されることではない。
彼が最も恐れることは、むしろ9年間の努力の果てにようやく手にした宇宙の世界への扉が、無残に閉じられてしまうことなのだ。

9月30日、世界中がピリピリとした緊張感に包まれる中、最後の土壇場でキャンセルもあり得ると覚悟しつつ、彼はIAC派遣プログラムの集合場所である成田空港へと向かう。

第46話に続く)

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