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DATE : 2011.03.09 (Wed) 07:28
第37話より続く)

国際宇宙連盟会議(IAC: International Astronautical Congress、別名IAF会議)は、1950年にパリで第1回会議が行われて以来、10月の始めに5日間ほどの日程で毎年開催地を変えて行われている。
彼が無重量セミナーで出会った医学生の男は、1999年にオランダ・アムステルダムで行われた第50回会議に参加したらしい。
NASA、RKA(ロシア宇宙庁)、ESA(ヨーロッパ宇宙機関)など世界の宇宙機関の長官や、宇宙開発に関わる技術者や政策決定者など約1500人が開催地に集結し、宇宙開発の最新の状況や今後のあり方などについて発表を行う、世界最大の宇宙関連会議である。

この会議自体が興味深いものだが、さらに彼の興味を引いたのは、日本の宇宙開発事業団(NASDA)が学生を10数名選抜してこのIACに派遣するという事業を、1999年から始めたらしいことだ。
その学生達は、言ってみれば日本を代表する学生使節団とでもいうべき存在であるから、日本で最も宇宙に近い若者達と言ってもあながち間違いではあるまい。
その「使節団」の一員となれば、日本人宇宙飛行士候補者の選抜を行うNASDAとのパイプも、当然太くなるに違いない。

2年前のIACに参加した男の話から小さからぬ刺激を受けた彼は、IACに関する情報をネットであちこち探し回る。
どうやらつい2、3ヶ月前には、NASDAの選抜で10数人の学生がIACリオ・デジャネイロ大会に参加したらしい。
しかし、彼が最も求めている次回大会への派遣事業についての情報は、ありとあらゆるところをしつこく探し回っても、気配すら感じられない。

情報によると前々回と前回の派遣事業の告知は4月末頃に行われたようだから、それまで待つしかあるまいという結論に彼は達した。

西暦2000年の末。

彼が宇宙を目指す決意をして以来、英語の勉強や身体の鍛錬や医学研究科への入学など、振り返ってみれば一人の人間にとって膨大なエネルギーが費やされてきたものの、客観的に見ればこれといって主だった成果もないまま、8年の歳月が流れていた。


そして、我らが地球は21世紀を迎える。
それは新しい世紀の始まりであると同時に、新しい千年紀の始まりでもある。
宇宙の片田舎の地球人が考え出した暦の一つと言ってしまえばそれまでだが、それでも人は新しいミレニアムに、多かれ少なかれそれぞれの期待を抱いていることだろう。

彼は、新年早々の1月18日にNASDA主催の「若田宇宙飛行士帰国後連絡会」に参加する。
そこには日本人宇宙飛行士の若田光一さんをはじめ、国際宇宙ステーションの組み立てを任務とするSTS-92ミッションから帰還した世界の宇宙飛行士達が集結しており、彼らの話を直に聞くことができる。
本物の宇宙飛行士は黙って座っていてもオーラを放っているもので、それを至近距離で目の当たりにした彼は、彼らからまた新たな活動のエネルギーを得たに違いない。

環研での研究や、通学電車でのシャドーイングの日々は過ぎ、2001年は4月を迎える。
研究が軌道に乗り始めた大学院生活は相変わらず忙しいものだが、最大の関心事であるIACは常に彼の脳裏にあり、彼は定期的にNASDAのホームページなどのチェックを繰り返していた。
それにもかかわらず、待てど暮らせど全く音沙汰のない状況に、彼は焦りや苛立ちさえ感じていたかもしれない。

しかし2001年5月16日、ついに彼は待ち焦がれていたものをNASDAのサイト上に発見する。

第39話に続く)

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DATE : 2011.03.08 (Tue) 01:08
第36話より続く)

彼が所属する環境医学研究所には宇宙医学実験センターがあるが、それ以外にも宇宙関連の実験を行っている研究室がある。
彼の研究室も「宇宙環境利用に関する地上研究の公募」に応募しているから、もしこれに採用されればその仲間入りとなる。
このように宇宙との関わりが大きい環研では、口コミや掲示などで自然と宇宙関連のニュースが入って来る。

彼がMGLABのセミナーについて知ったのも、やはり環研でであろう。
MGLABというのは、地上で無重力状態を作り出す「落下棟」という実験設備を運用する会社である。
地下150mまで掘られた垂直なトンネルに実験試料を入れたカプセルを落とすと、4秒間の無重力(正確に言えば微小重力)状態を作り出すことができる。
遊園地にあるフリーフォールもこれと同じ原理で、自由落下により1秒ほどの無重力状態ができる。

落下棟で行われる実験は、将来的に宇宙での実験を視野に入れているといってよい。
「もしかしたら自分の研究を宇宙分野と関連付けることができるかもしれない。」
そう考えた彼は、MGLABのセミナーの情報を得て、早速参加を申し込んだ。
そこに宇宙との距離を縮められそうな微かな匂いを感じたのかもしれない。

2000年12月12日、彼はMGLABの「無重量セミナー」に参加する。
誘う相手もない彼は独りきりだが、自分の目標のために何かをしていると思うと、独り未知の場所に乗り込む一歩一歩に静かな喜びが感じられる。
やがて会場に着くと、宇宙関連の研究者達であろうか、そこには数十人の参加者が集まっていた。

セミナーの発表者の一人に、宇宙医学の研究者がある。
彼のお目当ては、彼の母校の医学部で生理学研究室の教授をしているその人物の話である。
無重力状態での自律神経の活動をラットを用いて調べるというその話は、彼の期待を裏切らず興味深いものであった。

落下棟を使った学術研究のセッションが終わると、次は懇親会である。
見知らぬもの同士が話す機会ができるように、このような懇親会はたいてい立食形式になっている。
立食形式でカジュアルとはいえ、あまり年齢が離れている人と話すのはやはりしんどいものだが、辺りを見渡してみると、彼と同年代の男があるではないか。

その二人はどちらからともなく近寄ったかと思うと、互いの所属や研究などについて話し始めた。
彼は、お目当ての教授の研究室の学生であるというその男が日頃行っている宇宙医学の研究の話を、羨望の眼差しで聞き惚れる。
宇宙に関わっている者はたいていそうなのだが、その男もご多分に漏れず、宇宙に対する思い入れが言葉の端々にあふれている。

しばらくすると、その学生の男は2年ほど前にオランダで行われた国際宇宙連盟会議(IAC)の話を始めた。
何でもそれは、NASAなど世界の宇宙関係機関が参加する、世界最大の宇宙関連会議らしい。
それに参加すること自体凄いことだが、さらに驚いたことに、その男は宇宙開発事業団(NASDA)の選抜によりその会議に派遣されたという。

「NASDAによるIACへの学生派遣事業は来年もあるんじゃないか」とその男は言う。
日本版NASAとも言うべきNASDAは、日本人宇宙飛行士候補者の選抜を行う機関であるから、そこが主催するIAC派遣事業に彼が興味ないはずがない。
海外で行われる宇宙関連の最大の会議に、NASDAの選抜で派遣される人達がいる――それはただならぬ者達に違いない。

彼には、それが「金色の者達」の如く映る。
いま彼の眼前にあり、まばゆいばかりのオーラを放っているその男も、いずれ宇宙飛行士候補者選抜を受験するのだろうか。
8年前に宇宙を目指す決意をしてから今まで、彼は彼と同じく宇宙を目指す者についてただ想像するのみであったが、ここに来て初めて、おそらくそれに違いないものに遭遇し、かつそれを目前にして相対したのである。

彼が自宅に着いたのは深夜だったが、彼は早速ネットでNASDAのIAC派遣事業について調べずにはいられなかった。

第38話に続く)

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DATE : 2011.03.06 (Sun) 01:54
第35話より続く)

通学電車の中でCNNニュースのシャドーイングをし、月に一回「第三の女」と会うという生活を彼が繰り返すうち、いつしか彼が大学院に入学してから半年近くが過ぎていた。
2年前には聖地と崇め、半年前には右も左も分からなかった環研での生活に、今では彼はすっかり馴染んでいる。
では肝心の研究の進捗状況はどうかというと、実はここまでのところあまり芳しくはない。

大学の研究室では、所属するスタッフが最近の研究の進捗状況を報告する「プログレスレポート」が定期的に行われるのが普通である。
彼が入学早々に当たった「論文抄読」は他の研究者の研究成果を勉強して報告するもので、プログレスレポートは自分の研究の進み具合を報告するものだが、形式的に両者は似ている。
その「プログレス」が行われる頻度は研究室によってまちまちだが、彼の研究室では比較的頻繁で、毎週月曜の午前中にそれが行われる。

つまり彼の研究室のスタッフは、毎週月曜の朝に皆集まって、先週一週間の進捗状況を一人ずつ報告するのである。
そこで「進捗はありません」と言うのは、当然ながら不名誉なことである。
彼がわざわざ日曜に環研に来て仕事をするのは、この「プログレス」で何とか有意義な結果を発表したいからというのが大きな理由である。

研究というのはやれば必ず成果が出るというものではないので、一生懸命努力しても全く結果に結びつかず、それを発表するときに痛々しい思いをすることも珍しくない。
そんな中で、彼の同期の大学院生の一人――それは彼がしばしば昼食を共にする人物である――は、毎週毎週「これでもか!」というほど大量のデータを発表していて、教授も舌を巻くほどの勢いである。
それとは対照的に、乱暴な言い方をすれば「雑魚」のようなデータしか発表できない彼は、同僚の輝かしいプログレスを若干苦々しく眺めている。

また研究というのは何らかの仮説を立証するために行うわけだが、その仮説が間違っていることもある。
例えるなら、山にトンネルを掘るとき、計画したルートが正しければ見事に道が貫通するが、途中に予想外の岩盤が見つかることもあるということだ。
障害にぶつかるのが掘り始めてすぐであればまだいいが、開通まであと少しと思われるところで貫通不可能な岩盤に当たったりすると、目も当てられない。

当事者にとっては恐ろしいことだが、大学院に入学した者が全て博士号を取得できるわけではない。
実際、研究がうまく行かずいつの間にかいなくなってしまう人を、彼も何人か見ている。
彼は、背中に暗く冷たいものがのしかかるようなやるせなさに浸りつつ、「文明が発展した現代にも、野生の掟はあるのだ」と感じずにはいられなかった。

そのような周囲の状況も手伝ってか、彼は、自分の研究の先行きに一抹の不安を感じることがないとは言い切れない状況にあった。
しかし幸いなことに、1ヶ月ほど前から始めていた新しい実験が、希望の持てるデータを生み始めていた。
そのハードな実験を始めると泊り込みになることもあるのだが、有意義なデータが出る実験というのは、それでも喜んでやりたいと思うものだ。

そして時は2000年の冬を迎えるが、ようやく研究が軌道に乗り出した彼に、ここでまた一つの運命的な出会いが訪れようとしている。

第37話に続く)

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DATE : 2011.03.05 (Sat) 04:14
第34話より続く)

盛夏の真っ青な空の下、太陽に輝くワインレッドメタリックのシルビアが、眺めのよい高速道路を走り抜けていく。
サンルーフ越しに大空を臨み、南に向かって爽快な速度で駆けるその車は、彼が獣医師3年目になけなしの金をはたいて買ったものだ。
中古ではあるが、外観も内装も比較的美しく、踏めば応えるその車を彼はたいそう気に入っている。

待ち合わせの場所で人を乗せると、車は海に向かって走り出す。
今日は、彼らが以前から計画していた旅行の日である。
彼らが初めて会ってから、一年ほどが過ぎただろうか。

彼が獣医師を辞めて実家に引っ越した後も、どちらが言い出したか、彼らは月に一回会っている。
考えてみれば不思議なことだ。
なぜなら腎不全の患者はとうの昔にこの世を去り、彼女は既にその飼い主ではなく、もちろん彼はもはやその猫の担当の獣医師などではないのだから。

それではなぜ彼は彼女に会うのか。
彼が女性を考える上で最も重要なことは、自分が宇宙を目指していることを、その人が理解してくれるか否かに他ならない。
いま、彼から宇宙を取ったらいったい何が残るというのか?

***

4年前に獣医学生だった頃、彼は「第2の女」をドライブに連れ出したことがある。
それは、彼が「人生唯一の絶望」に沈んだ後の話である。
実は、その後しばらくの間、彼らの関係が完全に絶たれたわけではなかった。

ワインレッドメタリックと比べると明らかに見栄えしない車ではあるが、それでも初夏の清々しい空気の中を走るのは気持ちがいい。
隣に乗っているのが、相変わらず瀟洒で美しい女であればなおさらである。
その車を走らせながら、軽い会話の流れの中で、彼は自分が宇宙を目指していることを彼女に知らせた。

すると彼女はこう言った。
「先輩ならきっとなれますよ。がんばってください。」
彼女は遠くを見ながら笑みを浮かべていたが、その笑みが心からのものではないことを、彼は重々感じていた。

***

第一と第二の女も含め、彼は今までに様々なひとに出会ったが、一度としてその関係に満足したことはなかった。
彼の失意のうちに消えた泡沫は、両手の指では数え切れない。
それはそれとして、ではこの先に現れる泡沫が、彼に満足を与える保証などどこにあろうか?

いま彼の車の助手席に座っている人は、テレビで宇宙関連の番組があれば彼に連絡し、新聞に宇宙の話が載っていれば、わざわざそれを切り抜いて彼に郵送で送ってくれる。
この広大な宇宙の中で、実の親すら懐疑を抱く彼の生き方をありのままに受け入れる存在が、いったいどれだけあるというのか?
毎月一回彼女に会うごとに、彼の思いは強まっていく。

この人の他に、自分にはいったい誰があるのだろう――?


秋の素晴らしく晴れた日、洒落たカフェや観覧車が立ち並ぶあか抜けたハーバーランドで、彼は今や彼にとって疑いもない「第三の女」に会う。
ふたりは椅子に腰掛けて、赤く美しい夕陽が、静かなさざ波の海にゆっくりと沈んでいくのを見ている。
水面にきらきらと映る太陽の光を見つめながら、彼が彼女に伝えたのは、約束の言葉であった。

第36話に続く)

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DATE : 2011.03.04 (Fri) 01:37
第33話より続く)

3年間小さからぬ努力を続けてきたにもかかわらず、4回目の英検1級の試験で、彼はまたしても不合格Bという結果に終わってしまう。
そのときの彼の心境を英語で表現するなら、”bite the dust”という熟語がしっくりくる。
それは「地上に打ち倒される、屈辱を受ける」という意味だが、人が地面にブチ倒されて土を噛みしめる姿を想像すると、なお生き生きと彼の心境が理解されよう。

英語学習の次の一手を求めて行った書店で、彼は『CNN English Express』に出遭うが、そこには彼が聞いたこともない勉強法が説明されていた。
そのやり方は非常に簡単で、ネイティブスピーカーが話している内容を聞きながら、それに続いて真似をしてしゃべる、というあっけないものである。
話された音声に影のようについていくことから、その勉強法は「シャドーイング」と呼ばれる。

音を真似るためには注意深く聴くので、耳が鍛わる。
話すときは口を動かすので、口が鍛わる。
話している内容を考えれば、脳が鍛わる。

つまりこの方法は、ネイティブに続いて真似をするというたったそれだけのことで、耳、口、脳を同時に鍛えているのだ。

ここで重要なのは、言っている意味が分からなくても止まって考えず、とにかく音を真似するということだ。
英語の正しいリズムや発音を身につける上では、むしろ意味など分からない方がいいときさえある。
聞き取れなかったり、意味が分からなかったときは、一通りシャドーイングが終わった後で本を見て調べる。

このようにして同じ音声教材を何回も繰り返すと、初めはついていけなくても、次第に言っていることが聞き分けられ、ネイティブに近い発音で口が動き、かつ文章の構成が分かるようになってくる。
短い文章などは、頭ではなく口が覚えるので、「実戦」では非常に有効だ。
かなり効果的なこの方法だが、実際に声を出して発音するとなると、できる場所がほぼ自宅だけに限られてしまう。

どうしたものかと彼は考えたが、発音はせずに口だけ動かしてみてはどうかと思い付く。
彼は、早速イヤホンと音楽プレーヤーを準備して、通学電車の中でシャドーイングを始めた。
本を広げる必要がないので、満員電車でもお構いなしである。

それは電車に乗っている他の乗客からすれば、非常に奇妙で不可思議な光景に違いない。
何しろ、遠くを見つめた男が20分も30分も、一心不乱にひたすら口を動かしているのだから。
ときどきかすれ声を出しつつ唾をも飛ばさん勢いのその男は、下手をすると、ちょっとおかしい人とさえ思われかねない。

しかし彼は、なりふり構わずそれを続ける。
自分がしていることは、必ずや英語力を鍛えるに違いない。
傍目に「イってる」と思われているだろうことを、むしろ彼は楽しんでいるきらいすらある。

このように毎日の通学電車で奇行を繰り返す彼だが、そんな彼にも毎月一回逢う人がある。

第35話に続く)

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