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DATE : 2011.03.03 (Thu) 07:31
第32話より続く)

彼が英検1級を受験したのは今回で4度目だったが、いつものことながら出来栄えに自信はない。
大量の英文に圧倒されるその試験で、彼は時間内になんとか全問解答するのがやっとである。
それでもとにかく試験は終わったから、彼はここ2ヶ月間の緊張から開放された。

この頃の彼の日常はというと、平日は研究室の実験で忙しいが、週末もまた暇ではない。
土曜日には専門学校で生理学の講師(それは研究室の教授の紹介で得た仕事である)をし、日曜日には研究で環研に行く。
それは気楽な生活ではないが、しているのは自分が求めていたことなので、彼に満ちているのは不満ではなく、充実感である。

しばらくして、日本英語検定協会から彼の実家に一通の葉書が送られてきた。
先日の試験の結果に若干の期待を抱きつつ、彼は葉書のシールをゆっくりと慎重に剥がして開く。
そしてそこに現れた文字は――またしても不合格Bである。

何ということだ、4回続けて同じ結果とは――!
それはフラストレーションを感じずにはいられない状況だろうが、彼を救ったのは、それでも毎回いくらか点数が上がって来ていることである。
3年前の試験では122点満点中59点だったが、今回は72点である。

この試験のために特に単語・熟語の勉強に集中してきた彼だが、語彙・熟語の項目が前回は30点満点中8点だったのに対し、今回は18点に上がっていた。
電車で揉まれて、人目を盗んでまでした勉強が功を奏したのは間違いなかろう。
語彙・熟語の弱点を補強した今、残る項目は読解、作文、聴解だが、これらに関しては特にどれが弱いという傾向はなく、全体的に点数が足りないという状況だ。

もし彼に才能があれば、英語の習得にここまで苦労することはあるまい。
しかし、それは彼が背負った宿命であるから、不平不満を垂れたとて、自分の価値を下げるほかに何の報いもあるまい。
彼は、華麗とかスマートとかいった時流に乗った華やかな性質は持ち合わせていないが、その代わりに打たれ強さは持っている。

試験の結果は不合格であったが、より本質的なことは、彼の英語が宇宙で通用するかどうかである。
彼は、自分の力がまだまだそれには及ばないことをよく分かっている。
そうであれば、ここで諦めるという選択肢はない。

彼の人生の河で、「4度目の英検1級挑戦」という小さな泡沫がまた消えていく。


絶対に英検1級を取ると決意している彼は、すぐさま次の行動に打って出る。
どうやら困ったときには本に相談するというのが彼のやり方らしく、彼が向かった先はまたしても書店である。
そこで彼は、『CNN English Express』なる雑誌に目を留める。

その教材は、CNN(アメリカのニュース専門放送局)のニュースをいくつかピックアップしたCDと、それを徹底して解説した記事から構成されている。
政治・経済・科学などの質の高いニュースはもちろん、話題の有名人との対談コーナーや、最新の映画の紹介なども収録されていて、飽きさせない内容になっている。
これは英検1級の勉強に相応しいと考えた彼は、毎月発売のその教材を定期的に買って勉強することになる。

ここで、彼の英語勉強法に革命的な変化が起こる。

第34話に続く)

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DATE : 2011.03.02 (Wed) 07:35
第31話より続く)

大学院に通うために獣医師の仕事を辞めた彼は、動物病院のある地から引っ越してきて実家に居候している。
両親にとって息子と暮らすのは嫌ではなかろうが、独り立ちしたと思った者が戻ってくるわけだから、慣れてくると嬉しいばかりでもなくなってくる。
彼の家は学問の家系というわけではないので、研究生活なるものに対し必ずしも理解があるわけではない。

彼の両親は、彼が「医学研究科で博士号を取りたい」と言ったとき反対はしなかったが、それはまさか自分たちの息子が医学部の大学院に入学できるなどとは考えていなかったからだろう。
また社会一般の目で見れば、彼の状況で宇宙を目指すというのは、実現可能性に大いに疑問符が付く。
したがって息子が宇宙を目指していることも、それを両手離しで応援するというよりは、一歩引いたところから見ている感がある。

そんな実家から、彼は片道2時間かけて大学院に通っている。
長い通学時間は一見ハンディーキャップに見えるが、使いようによっては逆に大きなアドバンテージになる。
電車の中というのは思いのほかいろいろとできるもので、毎日のその時間を積み重ねると、バカにならないほど大きな仕事ができる。


2ヵ月後に英検の試験に挑む彼は、書店で『英検pass単熟語1級』なる本を買ってきて通学電車の中で勉強している。
3年前に受験して不合格Bとなった英検1級の一次試験では、語彙・熟語の項目の得点が30点満点中8点で、読解力など他の項目と比べ明らかに低かったからである。
彼がこれまで『松本亨英作全集』で注力してきた英作文の配点はというと、満点が10点であるから、それよりは語彙・熟語の勉強に集中した方が一次試験対策としては上策だろう。

それに英語を実際に「使う」段になると、難しい文法よりも単語力がものをいう。
例えば、「衆議院」「二酸化炭素の排出」「火山の噴火」などといった言葉がとっさに出てこないと、会話は滞ってしまう。
宇宙飛行士の会話ともなれば、このような単語で「う~ん」と唸って考え込むようではお話になるまい。

単語の学習といえば、『ウェブスター英英辞典』で単語を調べたとき、その項目に赤丸をつけるという奇習が彼にはあった。
彼が7年前にケンタッキーで買ってきた、大きくて分厚いその辞書は、いつしかどのページを開いてもほぼ必ず赤丸が見つかるようになっていた。
それでもなお、彼の単語力は英検1級レベルには及ばないのである。

単語や熟語の勉強は、電車の中でするのにもってこいだ。
単熟語の教材(2000年当時はiPhoneなどのハイテク機器はなかったので、紙の本である)を見ると、1ページに載っている単語や熟語は概ね10数個だから、それを全部覚えるまで繰り返しやってもそれほど時間はかからない。
電車内にいる時間は決まっていて、しかもそれが毎日確保されているので、非常に計画的に勉強を進めることができる。

彼の勉強法はこうである。
本を開いて、そのページに載っている単熟語の意味を上から順に1個ずつ答えていき、合っていればチェックを入れる。
ページの最後まで行ったら一番上に戻り、チェックの入っていないものだけをもう一度答えていく。正解したらチェックを入れる。
こうすると、繰り返すうちに答えられない単熟語が減っていく。
そして全ての単熟語にチェックが入ったら、次のページに進む。
ページが進んでいくと、前に覚えた単熟語を忘れてしまっていることに気付いたりするが、気にせずどんどん進める。

彼が取り組んでいる『英検pass単熟語1級』はおよそ240ページあるので、1日4ページずつ進めていけば2カ月で1冊終えることができる。
単熟語をやるのは基本的に電車の中なのだが、1日のノルマを達成するのが難しいときは、教員の目を盗んで研究室でも実験の合間にやったりする。
彼は獣医学生時代にも講義中にこっそり語学の勉強をしたものだが、後に自らが就くことになる職業のことなどは知る由もあるまい。

満員電車で揉まれたり、人目を盗んだりしながらの勉強は楽ではない。
しかし、「宇宙に行くためにはこの単語を覚えることが必要だ」という思いが、彼を突き動かす。
困難に打ち克つ最大の武器は、明確な目標である。

2カ月後、彼がその本を一通りやり終えた時には、本の角が擦り切れていた。
彼は、一つの仕事をやり遂げたという達成感に浸った。

此くして迎えた2000年6月18日、彼は3年ぶり4度目の英検1級の試験に挑む。

第33話に続く)

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DATE : 2011.03.01 (Tue) 03:05
第30話より続く)

彼が論文抄読の「初陣」を終えた頃には、新年度が始まってから2週間ほどが経っていた。
毎日学術論文に読み耽る生活は、獣医師として患者や飼い主と接する生活とはかなりかけ離れたものである。
これまでの2週間を待つまでもなく、研究室に出入りし始めて2、3日した頃には、既に彼は獣医として働いていたのがもう遠い昔のことのように感じていた。

論文抄読の次の週からいよいよ彼が始めることになった研究のテーマは、「慢性炎症病態における冷痛覚過敏機構の解明」である。
平たく言えば、寒いときにリュウマチ患者の痛みが悪くなるのはなぜか、を調べる研究だ。
それは2年ほど前に獣医だった彼がネットカフェで描いていた宇宙医学の研究とは随分違うのだが、医学研究科に入学して博士号への道が開けただけでも、彼にとってはありがたいことだ。

それに、宇宙医学の研究の道が全く閉ざされているわけではない。
というのは、いま彼の研究室は「宇宙環境利用に関する地上研究の公募」なるものに応募しているからである。
これは宇宙開発事業団(JAXAの旧称)が委託している事業で、将来国際宇宙ステーション(ISS)で宇宙実験を行うための予備研究という位置づけのものである。

もしそれに採択されれば、彼の研究室と宇宙開発事業団との距離はグッと近くなり、宇宙飛行士候補者選抜を行うその組織で貴重な人脈を築けるに違いない。
そのプロジェクトの一つの目玉は、飛行機で上空に上がったあと自由落下することにより、20秒ほどの無重力状態を作り出す「パラボリックフライト」を用いて実験を行うことだ。
応募している研究提案が見事採択された暁には、彼もそのプロジェクトに加えると教授は言う。

ISSは、1年半ほど前の1998年10月――それはちょうど彼がこの研究室の教授にファーストコンタクトを取った頃――から建設が始まっていて、既に地球の上空約350kmにあり、90分に1回地球を回っている。
もしかしたら、いま応募している研究が何年か後にISSで行われるようになった時、宇宙でその実験をするのは、他ならぬ自分自身かもしれない――。
それは何ともナイーブな考えではあるが、もし彼の立場にあれば、その甘美な妄想を誰もが抱くに違いない。

宇宙を目指し始めて7年間、英語の勉強やマラソンなど個人的な活動をひたすら続けてきた彼だが、宇宙関連の人脈など皆無の彼は、孤島の一匹狼とでも言うべき存在であった。
ところが、いま彼が所属する環境医学研究所は、向井千秋さんの宇宙研究ミッションを計画し、地上からそれを管制して成功に導いた宇宙医学実験センターを擁する、全国有数の施設である。
このような「別星系」に来たことで、宇宙は彼にとって急激に身近な存在になった感があるが、この後に待ち受ける幾つかの運命のことを思えば、それとてまだまだ序の口に過ぎぬことを、彼は未だ知らない。


一方、宇宙医学の研究に思いを馳せつつ彼が始めたのは、しばらく休んでいた英検の勉強である。
獣医師時代、現状ではまだ力及ばぬことを重々分かっていた彼は、英検の勉強を続けつつも3年間試験を受けずに雌伏していたが、今や再びその戦いに挑むときだと考えたのだ。
彼にとって因縁のその試験は、あと2ヵ月後に迫っている。

第32話に続く)

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DATE : 2011.02.28 (Mon) 00:28
第29話より続く)

2000年4月12日、環境医学研究所の一室で、彼の研究室の論文抄読会が始まる。
教授、助教授、助手などの教員スタッフに加え、大学院生や研究生など総勢10数名がその部屋に集まる。
この日は、大学院生の新人2人――エリート医師と彼――がそれぞれ読んできた論文の内容を紹介する、デビュー戦である。

発表順は、医師の方が先攻に当たった。
「ラット大腸感覚神経のカルシウム電流はμ、δではなくκオピオイドにより抑制される」というその論文は、やはり専門性が高く、ある程度しっかり読んでいないと人に説明できるレベルには到底達しない。
しかしその人物は、論文の研究の背景、実験方法、結果、考察をそつなくまとめて、1時間足らずの発表を要領よくこなした。

「流石に優秀だな。」
先攻の発表者のプレゼンテーションを聞きながら、そんなことを彼は考えた。
しかし司会者に自分の発表を促されると、やることはやってきたという思いがそうさせるのか、彼は慌てるでもなく自分の発表を始める。

大学の研究室で行われるこの手の発表会で、途中で中断されずに発表者が話し続けられることは、まずない。
発表者の説明が不十分な場合はもちろん突っ込まれるが、そうでなくても、発表者の理解度を試すために教授などから質問が入ったりする。
彼は後に気づくのだが、研究の世界では――他の世界でもそうかもしれないが――、何のコメントもせずに発表者の話をただ黙って聞いているだけだと、無能だと思われてしまうフシがある。

したがって、発表者が話しているとき、聴衆は何らかの質問やコメントをする隙を常に覗っているといっていい。
そのような聴衆の行動をテニスに例えるなら、彼らは論文抄読というゲームの流れを注意深く見つつ、鋭いストロークやボレーを打つチャンスを常に探している。
もし発表者が打ち損ないの甘い球などを上げてしまうと、思いッきり鋭いスマッシュを打ち込まれかねない。

果たして、彼の戦いぶりや如何に。
戦略的なコースなどを考えずに打つ彼は、教員から様々な角度にボレーやストロークを打ち込まれるものの、がむしゃらに走って追いつき、何とかそれを返している。
フォームは華麗から程遠く、時々フレームショットをかましたり、通常ではありえないコースに打ち返したりするのだが、それでも何とかコート内に返しているには違いない。

1時間ほど続いたその「試合」の結果はというと、「デビュー戦にしてはまずまず有望でしょう」というのが教授のコメントであった。
聴衆の「度肝」までは抜けなかっただろうが、その意気で臨んだことで、取り敢えずの成功は収めたと見てよかろう。
その日の晩、帰りの電車に揺られる彼は、9日間の戦いの疲労を感じつつも、面持ちは明るかった。

次の週、彼は実験を始めることになった。
もうデスクの前にただ座って論文を読んでいるだけの生活は終わりだ。
いよいよ大学院の博士課程で、彼の研究が始動する。

第31話に続く)

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DATE : 2011.02.27 (Sun) 02:58
第28話より続く)

ヘマをやらかすと、ボコボコにされかねない論文抄読。
大学院に入学後、たった1週間ほどでその「デビュー戦」に当たることは、そうそうなかろう。
しかし、彼が鬼気迫る勢いでその準備をしているのは、ただ「ボコボコにされないため」という消極的な理由だけからではない。

その研究室に大学院生として入学してきた者は、彼も合わせて4人ある。
彼以外は全て医師であるから、獣医である彼は「異端」ともいえる。
論文抄読会では毎回2名が発表を行うのだが、来たる4月12日の発表者は、彼と、3人の医師のうちの一人――しかも、その中で最もエリートと目される者――であるらしい。

それが意味することは、彼の能力と、そのエリート医師の能力とが、嫌でも比較されるということだ。
まるで意図的にされたかのようなセッティングではないか。
いずれにせよ、同期のエリート医師と比較され「やっぱり獣医じゃねぇ・・・」などと思われては、たまったものではない。

彼は、いつか読んだ毛利衛さんの本に、「宇宙飛行士を目指す人は、職場のみんなから「この人なら大丈夫だ」と思われるような人でなければならない」とあったことを思い出す。
ボコボコにされないのは当然のこと、宇宙を目指すのに恥じない能力を示さねば。
彼は論文のあちこちに赤色の線を引きつつ、自分の理解が曖昧と思われるところを洗い出して、徹底的に調べ上げていく。

彼と同じ日に抄読会で発表する「敵」は、見るからに、そして言葉の端々にも知的なオーラを放っていて如何にも手強いのだが、彼に全く勝算がないわけではない。
医学といってもその中には内科学や細菌学など様々な分野があるが、彼らの研究室は「生理学」に属している。
生理学とは、心臓や肺などの器官がどのような仕組みで働いているかを解明する学問である。

3年前に彼が卒業した獣医学科では、卒業までの1年半の間、研究室に所属して卒業研究を行うことになっている。
彼が学生時代にその1年半を過ごしたのは、まさに生理学研究室だったのだ。
「第2の女」との出会いのきっかけにもなったその研究室で、彼は味覚と嗅覚の関連に関する研究を行い、卒業論文を完成させていた。

つまり彼は、今読んでいる論文の研究について多少の素養がある。
また英語に関しては、彼のような奇異な動機でもない限り、大学時代から継続して勉強している者もそうそうなかろう。
今度の4月12日には、高みの見物でお手並み拝見を決め込む輩(ともがら)の「度肝を抜いて」やろうじゃないか。

彼は通学の電車の中でも論文を離さず、何回も何回も読み込んで初陣に備える。

第30話に続く)

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