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DATE : 2014.08.19 (Tue) 23:41
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』を読んだ。
 この本を私なりに要約すると、次のようになる。政府などの特定の組織に権力が集中すると、問題の解決――郵便や年金が典型的だ――が非効率になり、よい結果が阻まれる。なぜならばよい解決策は往々にして一見異端とされる意見から生じるからだ。市場を通じて解決策(物品、サービスや人も含む)を自由に提供すれば、自ずと最適な結果が生まれる、ということだろう。
 身近な例で分かりやすいのは、道路公団民営化後のサービスエリアだ。民営化前は、ひなびた食堂のつまらない食事に、高いお金を払ったものだ。ところが今や、レストランはおしゃれでメニューも魅力的だ。トイレも綺麗になり、子供用のトイレなどはそれ自体が公園のような、芸術的とさえ言えるSAもある。この違いは革命的と言っていい。

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 これは国のような大きな組織だけでなく、日常の場面にも大いにあてはまる。仕事でも学生サークルでも、特定の部門やグループ(指導層、リーダー)に権力が集中して個人の意見が容れられない組織では、その能力は概して低くなる。一見ヘンだけどやってみれば実は面白いとか、思いのほか効率が高いという意見が自由に取り入れられうる環境がないと、仕事も部活もなかなか改善されない。指導層の能力が高い場合でもまずそうなる。したがって「こいつ変なこと言うやつだな」と思っても、まず聞く寛容さがなければ、組織の生産性は向上しない。
 ここから得られる教訓は、生産性を上げるためには、国でも仕事でも部活でも、様々な解決策を提案できる自由な環境をつくること。また指導層は、寛容な精神で様々な意見を聞くことだ。ヘンな意見のほとんどは役に立たないものだが、それでもその中のわずかなものは、現状を革命的に改善する可能性を秘めていることを忘れてはいけない。
 この戦略を用いれば、資本主義が社会主義に勝ったように、その組織は必ず勝つ。

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DATE : 2014.08.15 (Fri) 01:20
司馬遼太郎『坂の上の雲』を読んだ。
 これは、好古(よしふる)、真之(さねゆき)の秋山兄弟を中心に、日本がその滅亡の危機に瀕した日露戦争という時代をひたむきに駆け抜けた話である。
 明治時代の日本人は、世界屈指の強国であるロシアの脅威から、当時の弱小国である日本を、文字通り命を擲って救った。日本人でなくとも、恐怖と空腹と痛みと極寒に耐え、ただひたすらに家族と同胞と子孫のために自分を捨てて戦った人間たちの偉業に、心動かされない者はあるまい。歴史の教科書からは到底伝わってこない感動が、『坂の上の雲』にはある。私は、好古や真之やその他綺羅星の如き英傑の数々が懸命に闘って成した偉業に、憧憬せずにはいられない。

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 かの時代には、自由がなかった。金がなかったから士官学校に入って軍人になった、というのは好古や真之だけではない。そしてすべての国民が、救国というただ一つの目的のために生きた。その意味で、すべての人が価値観を共有したといっていい。坂の上にはただ一つの雲しかなく、みなそれを目指して進んだ。
 この時代には、自由がある。どころか、溢れている。学校も仕事も服装も、部活も遊びも恋愛も、車も家電も携帯も、すべての選択が自由である。そして価値観は多様化した。語学も楽器もスポーツもいいが、マンガもゲームもコスプレもいい。あたかも雲海のただ中で道を見失っているかのようでもある。
 かつて先人たちが目指した、自由で多様で豊かな時代に、私たちは生きている。しかし、不自由で一様で貧しかった明治時代に憧れてしまうのはなぜだろう? 思うにそれは、かの時代では人がひとつの偉大な目的に何の疑いもなく突き進んでゆくことができ、かつその成果が皆から評価されたからだろう。
 この時代を幸せに生きるには、どうすればいいか? 二つの生き方がある。この豊かな時代では、何も血相を変えて働かなくても、そこそこ働いていればそこそこ楽しく生きていける。面倒なことは考えず、自分の好きな楽しいことをして一生を過ごしても、誰にも非難されない。
 もう一つの生き方は、自分が定めた一つの価値を、ストイックに追求していくことだ。あらゆる価値が認められているいまは、自分で価値を定めるしかない。それをひたむきに進めた先に、偉業が成っていることだろう。
というと大そうなことのようだが、何かを求めるということでいえば、求め方が違うだけで、楽を求めるのと大した違いはない。この自由の時代では、自分の生きたいように生きればいい。

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DATE : 2014.07.06 (Sun) 12:07
「筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る」『徒然草』第百五十七段
直接触れたり何かを体験することで、思いや考えが生じるということだろう。

仕事でも私生活でも、アイデアが出てこない時というのはある。
じっと考えても何も出てこないときは、外に出て何かに触れてみる。
きっと単なる気晴らし以上の効果が得られるだろう。
ただし、何に触れるかはよく考える必要がある。

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DATE : 2013.06.28 (Fri) 00:04
マキアヴェリの『君主論』は、1532年に刊行された。
中世イタリアを中心としたヨーロッパ世界における君主のあるべき姿について論じているのだが、その示唆するところはグローバル化された現代のリーダーも大いに学ぶところのある、極めて普遍的な書である。
君主論の内容を現代の組織に当てはめてみるのもおもしろい。
ここでは大学研究室を例にとってみよう。

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「君主国に、統治者の血筋を引く一族が永年君位を受け継いだ世襲君主国と、新たにできた君主国がある。」
前者は、大学では前教授の直属の部下である准教授(あるいは講師か助教)が教授になった研究室を指し、後者はよその大学あるいは研究機関、企業などから教授が選ばれた研究室を指す。
『君主論』では国を保持する難しさは世襲国家の方が小さいと述べるが、これは大学の研究室でもそうだろう。
なぜならば、よそから新しく来た教授は研究室の運営方針を一から築き、かつその秩序を構成員に守らさせなければならないからである。

「君主が国を守る戦力には、自国軍、傭兵軍、外国支援軍、混成軍とがある。」
現代の大学研究室にとって戦いとは、研究開発活動である。
研究室のパワー、すなわち国力は、研究開発の成果で測られる。
自国軍は自分の研究室の構成員から成るグループ、外国支援軍は他の研究室の構成員から成るグループと考えてよい。
研究開発において、他学部や他大学との共同研究を行うことはよくある。
『君主論』は、外国支援軍を招いた場合しばしば災いが生じると説く。
外国支援軍が戦いに勝ったとき、それを雇った君主は彼らの虜になってしまうというリスクは十分考慮に入れなければならない。
すなわち、共同研究を行っている他大学の研究グループが立派な成果を上げた場合、その研究のイニシアチブが彼らに移ってしまう可能性があり、場合によっては主導権争いが起こりかねない。
最近は異分野連携がさかんに推奨されるが、共同研究を行うときは上記のリスクを十分に考慮した上で研究組織を構成しなければならない。

「君主は、かたときも軍事上の訓練を念頭から離してはならない。(中略)各地の地形の特徴をおぼえ、山の起伏のありさま、渓谷の狭まる模様、平野の広がるさま、河川や沼沢地の特徴を、よく理解しておかなくてはいけない。」
研究開発において、各地の地形の特徴をおぼえることとは、さまざまな研究手法や研究分野の動向について学び、通じておくことといえる。
そうすることによって、自分の研究の遂行のために最も有効な戦略を立てることができる。

「君主が衆望を集めるには、なによりも大事業(戦争)をおこない、みずからが、類いまれな手本を示すことである。」
これを大学研究室にあてはめると、教授が尊敬を受けるには大きく重要な研究プロジェクトをおこない、自ら率先してそれを進めていくことといえよう。
確かにこのようにすれば、教授は自分の研究室の人員からはもちろん、他大学の研究者や、場合によっては研究とは無縁の一般の人々からさえも尊敬と称賛を集めることだろう。

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DATE : 2013.06.15 (Sat) 09:59
レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んだ。
この本を一言でいえば、人類学者レヴィ=ストロースがブラジル先住民の社会生活を実地調査したときの回想記、となるだろう。
しかし、それだけにとどまらない人間社会に対する深い洞察が、単にエキゾチックな風習を面白おかしく吹聴する下卑た本と、60年以上脈々と人類に価値を与え続けているこの本とを、天と地以上に分けている。

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即効的な効果を期待する安直なハウツー本と異なり、この本が読者に与える影響を簡単に述べるのは難しいのだが、高尚で価値のある本が常にそうであるように、読者の世界観を変える力がこの本には宿っている。
人間とは何か――誰しも抱くこの根源的な疑問に対する答えが、著者の様々なエピソードや考察を通して暗喩的に語られる。
例えば私が人間社会についてなるほどと思わされたのは、次の一節である:
「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる。むしろ集団の方が、集団に先立って存在している首長になるかもしれない男から、集団の形や大きさや、さらには形成の過程など、一定の性格を授けられるのである。」
換言すれば、人間社会――そんな大そうなものでなくて学校の部活動など小さなグループでもそうだが――がどのような姿になるかは、構成員の要求によるというよりは、リーダーの能力による、ということだ。

また、これは本編の後の資料を読んで感じることだが、偉大な知識人がいかに社会に本質的な影響を与えるか、ということにも驚嘆させられる。
例えば、レヴィ=ストロースの仕事に、同僚のヤーコブソンの講義を書籍化した『親族の基本構造』がある。
出版されるほど価値のある講義は、そうそう受けられるものではない。
最近では、哲学のマイケル・サンデル教授の講義がこれにあたるだろうか。
「講義は雑用だから」とうそぶく大学教員もいるなかで、偉大な人は仕事のひとつひとつに価値を凝縮させているように思われる。

見回せば、ポスト目当て、業績目当ての、空疎で投げやりで、有害ですらある仕事がこの世になんと充満していることか。
あまりにも多くの仕事に「楽して得したい」という要求、大した価値のないものをさぞ立派なもののように見せようとする欺瞞が、あからさまに透けて見える。
私も含めあらゆる人に、この要求が潜在的に深く根を張っている。

しかし、よい仕事には短絡的な利益を超えた、価値を生み出すことに対する集中と使命感が感じられる。
低俗な仕事が価値よりも金やポストをまず要求するのに対し、よい仕事はその逆なのだ。
最終的に認められてこの世に残るのは、そのような仕事に違いない。

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